昭和41年04月18日 朝の御理解
信心の道を迷わず失わず、末の末まで教え伝えよと。信心の道を迷わず失わず末の末まず教え伝えよとこう、おっしゃっておられる。末の末まで教え伝えると、教えたい伝えたいとする事が、結局迷わず失わずというところを頂いておかなければ、伝えも出来なければ、教えも出来んと私は思うですね。そこで信心の道を迷わず失わずというところに、焦点を置いて信心を頂いて行けば、教えんでも伝えんでも実を言うたら、教え伝えられて行くという事なんです。
教えておこうと伝えておこうと、例えばそこに力まんでも自ずと伝わって行くものだと私は思う。ですからどの様な場合でも迷わずそれをなくせず、失わずしていくと言う事が問題だとこう思います。今朝から朝の御祈念に昨夜、秋永先生がみえましてそして私の学院行きの事やら、それがまぁ合格になっておる事やら、それを又どうでも体の方の養生をして、もう一遍今年の入学前までに、私を学院に入って貰わねばならんと言う様な働きに対して、どうしたらよいかという事の、まぁ打合せに昨日は見えたんです。
こりゃもうぐず々しておく事じゃないと思んです。もう明日月次祭にどうしても参りますけれども、もう一日でも猶予の出来ない事ですからというて、昨日はその事で打合せに来て下さったんです。その事に私つきまして神様にいろいろお願いをさせて頂きましたり、お届けをさせて頂きよりましたら、丁度まぁいうなら、御本部参拝の途中にある汽車の中のような感じです。そして列車の丁度その真ん中とか普通の客車ではなくてですね、もう中はいっぱい混んでいるんです。
そしてその車掌室のようなところに私が、私の席をまあ設けてある。それでそこに私が長くなって休んでいる。そしてこのいわゆる以前の機関車ですから、湯煙が入りますよね。長く旅をしたりしますと、窓でも開かっておると真っ黒になるでしょう。鼻の穴なんかも湯煙で真っ黒になるくらいになるですね。ですからその顔にこのハンカチのようなもので、こう顔に覆いをして、まぁ私は楽に足を投げ出して休み、顔にはこうハンカチを被せてあるというところを御心眼に頂いた。
これはまぁ御本部行きの汽車のようなという事は、まぁ私共の信心の目指して、目指すというところだと、進んで行くという事だと思うですね。その道すがらその汽車の中という事は、その道すがらなのだという事であろうかとこう思うた。何故私を中央に出さないかと、何故客席のところに出さないかと、それをわざわざ私を車掌室の中に乗せて貰っておるという事は、私は神様の願いと言うか、神様の思いと言うか神愛を感じん訳にはまりません。成程中央には出てはいない。
客席には座っていないけれども、実を言うたら客席よりも中央よりもその車掌室の方がよっぽど楽なんです。しかも足なげだして、しかも人から文句言われんですむとこにまあ、いうなら、許されて車掌室に入っておるという事。いわばその中の混んでおるのに、足を投げ出して休んでおるという事。顔を覆ってあるという事はです私の顔を見せない。私の顔を出さない。私の顔を私の顔を出さない。それはいうなら如何にもその顔をね、世の中には、様々な人がありますよね。
非常にこの名誉欲なんかの強い人はです、中央に出たがりますよねどんどんね。力もないのにいうならば、その自分の顔を売り出したい訳なんですよ。名誉欲なんかはそうなんです。自分の顔ばっかり大事にする。顔を出そうとする。どこまでも自分の顔を(もつれとかなければ)気の済まんと言う様な人がありますもん。そういう意味合いでです、私共は又自分でそういう本当にその名誉欲といったものは、もう本当に自分の心の中にはさらさらないと、ま、思うんですけれどももういうならば。
人が助かる事さえ出来れば良いというのが、私の趣旨なのですから、それでも御本部なら御本部へという信心のいわば中心地である。そこへ向かって進んでおる列車の中で神様がここに乗っとったんでは混むから足も投げ出されんから、楽も出来んから、わざわざ車掌室に席を私に、設けて下さる。何故私に顔を出しなさらんか、そんな事は問題じゃないから、いわばそれでは湯煙に顔が真っ黒になるだろう、いわば湯煙を吸うて体の衛生的にも良くないというので、ハンカチをこうかぶせてあると言う所にです。
本当に御神愛を有難しとかしこみ、受けなければおられんという気が致しました。その事の意味を皆さんわかるでしょうか。そこんところを皆さん、分らないと是は私だけの上の事だけではない。皆さんの上にもです、ね、神様に例えばお縋りさせて頂きたい。神様にお願いさせて頂き、どうして中央に出されんだろうかと、どうして自分の顔にだけは、覆いをしてあるであろうかと言う様な事がありますけれども、その向こうにはです楽をさせたい本当のおかげを頂かせたい、足を延し足と手を延さしてあげたい。
だからその湯煙に煩わしい思いをさせたくないというおかげを頂かせたいばっかりの、神情であり親心であるという事をわからせて頂く時にです、そういう時に信心がです、迷う人とそういう時に信心を、いよいよ御神意有難しとかしこんで、受けて行く人との開きが出来てくるのです。これだけの信心をさせて頂きよるのに、どうして自分は中央に出されんのやろうかと、どうして自分の顔は出らんのだろうかと、そこで成程我情我欲というものを捨てとかなければいけないという事が。
あぁありたいな、こうしたいなという、自分の思いとか良くとかというものを、捨てきっておかなければ出来ないと言うことになる。信心とはね迷わず失わずというとこう仰る。そういうときにです、お互いの者がいわゆる、そのところの信心が出来ておらんと自分の不具を嘆いたりね、迷うたり致します。これだけ信心するのにどうして、この様な事がという事になってくる。そういう時にです失う人すらが出てくる。というて信心を捨てきる事は出来んけれども、もう信心をいい加減なものにしてしまう。
それでは私は本当のおかげは頂かれない。私共が迷わなければならない時ほど、信心を失わなければおられんような時ほど、その事を大事にさせて頂きますとですね、あぁ成程、これは車掌席に席を頂いておる時であるという事がわかり、あぁこれはハンカチを顔にかぶせて頂いておる時であると、その事に対してお礼を申し上げねばならない事に、私共が迷うたり、失うたりするような場合があります。
てすからそこんところを迷わず失わずとこう、ね、只自分の思うようになって行くという時には、誰でも迷いもしなければ、失いも致しません。只神様ちゃ有難いお方とじゃばっかりその神様は有難いお方、神様は有難いお方というて、信心ちゃ有難い事じゃというて、信心を進めて行くかのように見えるけれどもです、それではない。もっともっと、深い御神意の中にあって、私共の上にです、神様の思いが、神様の働きがです、私共の上に現れてくるとです。
普通から言うたら迷わねばならないような時であり、失うような時であるけれども、そこんところを迷わず失わず頂いてこそ始めてです、信心が末の末まで伝えていけれるような微動だもいわばせんところの信心というものが出来てきて、その先に成程御神意とはここにあったんだと、こういうおかげを下さる事の為であったんだというおかげも、勿論合わせて頂いていく事が出来るのである。これは今申しました事は、これは私だけの事ではないのです。皆さんの上にだってそれなんです。
それを皆さんはその辺をしだごだにして行くからすぐにおかげがしだごだになる。そういう信心が、例えよし一生築きあげてもです、子供達が孫達がその信心を受けるか受けないかわからん、ね。末の末までも本当に教え伝えたいという願いを持たなければなりませんが、その願いを持つならば、自分自身がその信心を迷いもしなければ、失いもせずにすむところの、確固たる信心を頂いておかなければならん、という事になるですね。
どうぞ。